2016年10月22日  

みなさんこんにちは。めっきり秋らしくなりススキが風になびいて秋晴れの水色の空をバックにいわし雲を久しぶりに見ました。夢季家の近くに農家の方たちが毎朝早くから野菜などを持ち寄る小さな小さな直売所がありますそこには今ぶどうやなし、柿、栗などの秋の果物たちがずらっと所狭しと並べられ私たちの目を楽しませてくれています。私は日ごろからできるだけ旬のものをいただくよう心がけていますが、先日そこで目にとまったのが赤いネットに入った大粒の栗。「よし今日は栗ご飯を作ってみよう。」と思ったらその上の列にまたまた新米があるではありませんか!「やったー!」と思い栗と新米を買って帰りました。早速栗の鬼皮と渋皮をむくのに悪戦苦闘。翌日おいしいおいしい今年の秋の味を夢季家でスタッフみんなでいただきました。

さて10月になってから私の自宅の横の6階建の建物が解体されています。昭和51年、40年前に建築され北九州予備校として使用されていましたこの40年間おそらく10万人以上の予備校生が通った建物だと思います。予備校は平成20年にすぐ近くに新築されずっと全館空きビルでした。解体後は14階建てのマンションに生まれ変わるそうです。40年間予備校生のために頑張って役に立ってくれた建物です。お疲れ様でした。

人の手で作られたものは予備校のように役目が終わるとやがて壊されます。それと同様に私たち人間も生まれてきたからにはいつか役目が終わり必ず死にます、出会った人とずっと一緒にいたいと思っていてもいつか別れ、手に入れたものはいつか失います。生きているうちに失わずしてもあちらには何一つ持ってはいけません。私の人生を振り返っても「あっ。」という間に時が流れたくさんの人との出会いがありましたが、その中で今「会う」ことができる人たちはごくごくわずかです。その陰にはたくさんの人たちとの別れもありました。写真はあるほんの一瞬の「時」がプリントされた1枚の紙として「静止したのも」として残りますが、私たちの毎日の生活は時の流れの中で一秒ごとに変化をしていますので一瞬でも止まる事はありません。「常」と言う意味は「いつまでも変わらないこと」ですがこの世のほとんどは「無常」です。情け容赦ないという意味ではなくて「常ではない、ずっと変わらないものなどない。」という意味です。

大切な人との別れを迎えたとしても、家族の死を迎えたとしても、とても大事なものを失い一生懸命作り上げたものが壊れてしまったとしても決して悲観したり悩んだり自分を責めたりする必要はありません。すべてはあまりにも自然で当たり前のことなのです。

あ、「変わらないもの」がひとつだけありました。サザエさん一家です。カツオは毎年小学校4年生です。


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